幸福論
幸せは相対的価値観
猫は犬に比べると、「顔面神経」が少ないそうで、無表情なんだそうだ。
それでも、某有名猫ブログ『〇〇の秘密基地』のうに君はとても表情豊かだ。我が家でもハチワレは、その部類だ。
昨日、ハチワレが「愛してやまない」ツレに抱き上げられて、寝室へ向かうその表情は、リラックスというか、全面の安心感、満足感に満ち溢れてていて、「ああ「幸福ってこういう表情なんだ」」と自分に思わせた。
「幸せ」は相対的価値観
「幸せ」の基準を考えてみる。
昔の話で恐縮だが、水泳の岩崎選手が14歳でオリンピック金メダルを獲ったと際「今まで生きてきた中で、一番幸せです」と言った。これは非常に端的な例だ。これから分かるように、「過去の自分と比較して「幸せかどうか」は感じられる。
もう一つ「上を見て暮らすな、下見て暮らせ」ともよく聞く。これは「他人と比較して「自分が幸せかどうか判断する」事に他ならない。現代が「競争社会」だからと言うわけでなく、古来から人間は「他人と自分を比較」していた事がわかる。
過去の自分にせよ、周囲の人間にせよ、「幸せの尺度」は相対的なものなのだ。
ならば、周囲から少しでも劣る人は不幸せしか感じられない。
幸せな体験がない
忘れられない言葉がある。
「人間は、嫌な記憶を忘れるから生きていける」
中学の理科教師が授業中に言った。
これは非常に納得した。辛い嫌な記憶をいつも抱えていては、生き辛い。忘れる事が出来るから、前だけを向いて生きていける。
忘却は、生き延びる為の重要なスキルだ。
だが、自分はいつまで経っても「過去の辛い記憶」が消えることはない。生々しく、血を只管垂れ流す。延々ジクジクと痛む傷を抱えた自分は、その場でただただ泣くばかりだ。心を覗けば、いつまでも大人になれない子どもな自分が、血を流しながら泣いているのだ。
2年前の入院中に、主治医にこの事を訊いた。
「幸福体験が余りにも少ないか、ないからだ」と微妙そうな顔で答える主治医の顔を見ながら、拳を握りしめ絶望した。
「じゃあ、どうすりゃ生きていけんの?」
「幸せ」ってなんだっけ?
精神疾患者の自分は自己肯定感が低い。周囲の人間はこんな自分をみて「幸せ」だと己を感じ、安心しているのか?
比較されるという事は、評価されると同義だから、低い評価を眼の前に叩きつけられる怖さから「対人恐怖症」を引き起こしているのかもしれない。
周囲から劣る人間は「幸せ」にはなれないのか?
それなら、過去の自分と比較する。
精神疾患を発病する前の自分と比較したら、沈没するしかない。
じゃあ、症状が悪かった「限定的な」自分をいつも引き合いに出せばいいのか?
ならば「寛解」と「幸せ」って同じか?
少なくとも、自分は過去の自分と比較して「幸せ」は感じられそうにない。
かといって、他人を下に見て「あれより、自分がマシ」と思うような人間にはなりたくない。自分がその対象になるのが嫌だから、せめて自分が同じことをしないようにと思うからだ。
血を流し続ける心を見つめて、泣き続ける幼い自分に寄添い、抱えて生きて行くしかないのだ。
「幸せってなんだっけ、なんだっけ?」
さんまさんのCMソングを頭の中で流し続けながら、淡々と生きていくのだ。
幸せなんて、分からない。
だけど生きていくしかない。
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エンゲル係数を少しでも下げる為に、安くて旨い酒を探しているのだが、外れた。口直しに更に飲んだので、口喝と中途覚醒が酷い。結局ルネスタ1mgを0時半に追加。
入眠が悪いと、「ベルソムラもやっぱり増やした方が良いのか?」と今まで効果なかったのに思ってしまう。早く入眠したい。
ルネスタ2mg、ベルソムラは1/3錠。
(薬の自己調整許可あり)
2019(平成31)年1月18日(金)