お節料理の皮肉
正月の膳を囲んで苦笑い その加護からも外れる己
正月の三が日はお節を食べた。
自分は幼少の頃から黒豆が一番好きだ。黒豆ばかりに箸を延ばす自分に祖父母はよく言っていた。
「豆々しく、元気に育つよ」
学校に行きだすと「黒豆が好きだから勉強もよく出来る様になれるよ」
働きだすと「豆々しくよく働いて、出世するよ」
どうやら自分はあんなに黒豆を食べたのに、その御利益にはあずかれなかったようだ。食べ過ぎて、逆に怨みをかったのか。
去年はお節食べなかったし、その前の2年は入院先の病院でお節擬きの食事は出たが「お節料理」という認識すら持てない、食事に関心の無い状態だった。
そうか、だから縁起担ぎが出来ずに、見放されていたのか?
ならば今年は「豆々しく体を動かし、その甲斐あって仕事に恵まれるなり幸せな一年が送れる」のか?
お節料理は保存が利くから、正月期間位は台所仕事から解放されるという意味が大きいだろうし、その分普段より多い客への応対がしやすいという事もあるだろう。
だけどそれでは味気ない。
年越しの目出度さも料理に持たせたい。
と言ったところでは無いだろうか、などと人生斜めに観る自分には思える。
ごまめの五穀豊穣は、豊かさへの祈りだろう。
数の子の子孫繁栄は、家の弥栄だろう。
紅白なますは、祝い事の目出度さだろう。
昆布巻は喜び、屠蘇梅茶は邪気を払い健康を連れてくる。
そうか!今年は症状も治り、健康で職にもありつけ万々歳だな!!
そう思う自分は天邪鬼で歪んでいる。
食べるだけで疲れてくる。苦い笑いがこみ上げる。
もしかして、願いを込めて作ってくれたのであれば申し訳ない。
だが、お節に込められた、明るい色をした眩い願いに耐えられないのだ。
一品一品の思いが呪縛の様に感じられてならない。
ここまで総て目出度づくしだなんて嫌味でしかない。
今の自分はその呪縛に耐えられない。
笑って流すことすら出来ない。
呪文の様に心を苛む。
いつの間に、こんな卑屈になったのだろう?
いつか笑って食べれる日が来るのだろうか?
縁起を担ぐのは、夢があるからだ。
夢に向かって歩いていける、体と心があるからだ。
心の擦切れた弱った人間に「夢を持て!」なんて言わないでくれ。
ただ呼吸をして咀嚼して、起きて眠るのが精一杯な人間に、悪意は無いが前向きで輝く希望をぶつけないで欲しい。
世の中はそんなものに満ち溢れているけれど……
お節を食べながら感じたことは、世の中からの嫌味でしか無い。
悪意なき事は充分承知だ。
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睡眠データを添付する様になって気になっていたのが、布団に入って直ぐ「一度睡眠状態に入っている」事だった。なので、昨晩の行動を思い返すと分かった。「自律訓練法」実行中だ。自律訓練法、効果あるじゃん。凄いじゃん!そのまま入眠出来ないのがまたツボだけど(苦笑)
いつか自律訓練法についても整理して書こう。
ルネスタ2mg錠はあと3錠しかない。診察日には全然足りない。1mg錠使えば足りるがなるべく取っておきたい。ではベルソムラか………。ベルソムラ寝すぎるんだよなぁ。どうするか?まあ、あと3日あると思って考えよう。
(薬の自己調整許可あり)
2019(平成31)年1月3日(木)
今日は空が澄んでいる