物を捨てる
捨てるのは軽躁だから?
カーペットを捨てる
カーペットを捨てた。
2枚、1年以上前にひっぺがして押入れにしまっておいた。しまう際には日に干して叩いたりゴミを吸ったり手をかけたが、もう使う事はない。押入れの場所塞ぎでもあるので、一枚燃える袋に入ったので、捨てた。
もう一枚は変わらず押入れの中。これはまた来年にでも捨てよう。別に押入れが足りてない訳ではないし、1枚捨てたついでにその勢いで捨てるというのもあるのだろうが、結構1枚を折りたたんでゴミ袋に入れて、集積所まで持っていくにはかなりの労力が要る。要は気力切れなのだ。
と言いつつ、昨日ベッドの下に敷いていたカーペットを引っ剥がした。
ダブルのベッドマットを動かし、ベッドの敷板を剥ぎ、ベッドフレームを持ってカーペットを引きづり出した。ここで自分は軽躁なのかと考えた。
こんな労力の要る、尚且つ力仕事を突発的にするなんて、衝動的な軽躁症状そのものではないか。
服を捨てる
実は、その前日に服を20枚ほどリサイクルショップに売りに行った。
皺くちゃだと流石にダメだろうと思い、せっせとアイロンをかけたのに、買取価格は109円だった。500円ぐらいは期待していたが、気持ちは落ち込まずにサッパリした気分だ。
「これから捨てる時は、アイロンもかけずに古布回収ボックスに入れに行こう。なんて簡単」そう思う気持ちがサッパリした感覚だったのだ。
春夏物をリサイクルショップに持って行ったから、冬になったら冬物を大々的に処分しよう。そう思いつつ、「思い立ったが吉日」とばかりにジャケット何点かとスーツを古布回収に持っていく準備で紙袋に入れた。
思い出
思い出のあるものから選んで処分した。
結婚時に母に貰ったスーツとか。
思い出のあるものから捨てないと、他の物が捨てられない。思い出あるものが残っていると、処分する服を選ぶのに、その服の生地や新しさ、「着れそう」な感じと比較してしまうからだ。思い出のある服は大体大事に扱っているので、古くても綺麗だ。それと比較したのでは、どれも捨てられない。だから、思いのある服から処分すると、他の物も捨てられる。
捨てる判断
「捨てよう」という衝動的な思い、「捨てるものの」の判断力。どれも鬱ではみられないものだ。
しかもこれだけ一挙に処分しているという事は、軽躁だろう。自分を鑑みて観れば、少し興奮状態だ。
「捨てる」という行為は、どうやら脳を活性化するらしい。
今まで何年も捨てなかったものを捨てるのだ。脳の切替とパワーが必要なのは納得。それにしても軽躁はよろしくない。
自分は軽躁を恐れる。軽躁の行動はあとで考えると怖ろしい。それに軽躁のあとは大鬱になる。
今、軽躁だから、ドグマチールを50mg減らそうかとも考える。だが、また鬱落下するかもと思うと決めきれない。軽躁の後の鬱でなく、ドグマチールで支えていたのが、薬が足りずに支えられないという事態を憂慮している。
明日は診察だから、そこで相談する事にして、今日までは150mgフルに飲んでいよう。
そうだ。古いタオルも処分しよう。大体タオルの量が多いのだ。毎日洗濯すれば棚から溢れる(タオルの数が多いのは、自分が大鬱でタオルを溜め込むから……)。
もう一歩踏み込んで、また夏服処分品を漁るとするか。何となく、捨てる気分が持続している。やっぱり軽躁か?
本日の落ち処
カーペットはでかくて、粗大ゴミで出す事になった。粗大ゴミセンターに収集依頼の電話もした。
服も捨てた。でもまだ捨てたい欲求が止まらない。軽躁か?
捨てるという行為、処分品を選ぶ判断力。どれも鬱ではあり得ない。やっぱり軽躁か?
ドグマチール減らしたいけど、鬱落下が怖い。薬の効果での軽躁なのか、自然なサイクル(病態)として軽躁なのか?
軽躁と鬱落下に怯えながら、物を捨てたい気持ちが止まらない。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇
今朝は5時に覚醒後、寝付けなくて、珍しく6時代に起床した。ベルソムラ減らしたのがよかったのか?
朝食前にヨガ。ドグマチールはヨガ後100mg、夕方50mg。
加味逍遥散料は朝晩2服、白虎加人参湯は食前3服。
夕食後にデジレル25mg。
就寝前はセロクエル・ルネスタ3mg・ベルソムラ7.5mg・吸引。
(薬の自己調整許可あり)
2019(平成31)年5月17日(金)